大河ドラマ『真田丸』も,いよいよ佳境に入ってきました。
ドラマでは,かつて自らが父・昌幸の命令で徳川軍を挑発し,第一次上田城の戦いの勝利に貢献したのと同様に,真田幸村は息子の大助に徳川方の前田利長隊を挑発して真田丸に誘い込み,前田隊とこれに続いた井伊直孝隊(
幸村が,さりげなく来年の大河ドラマの宣伝をしていたのには思わず吹いた),そして松平忠直隊を大いに打ち破り,戦いを観戦していた上杉景勝から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛されます。
ところで,『真田丸』の重要登場人物でもある,上杉景勝と直江兼続の主従コンビは,2009年の大河ドラマ『天地人』の主役でしたが,関ケ原の戦い当時における二人の行動について,『天地人』と『真田丸』では重要な違いが一つあります。
すなわち,史実では徳川家康が石田三成の挙兵を知って,上杉征伐を中止して兵を引き揚げる際,上杉勢が徳川勢を追撃しなかったのですが,『天地人』ではその際のやり取りとして,世に知られる『直江状』で徳川家康を挑発した直江兼続が追撃を主張したのに対し,主君の上杉景勝がこれに待ったをかけたものとされていました。
上杉景勝は直江兼続を非常に信頼しており,基本的に彼のやることは何でも認めていたのですが,そんな景勝が唯一兼続の主張を認めなかったのが,この際の徳川軍追撃だったというのが,『天地人』における重要なテーマでもありました。
それに対し,『真田丸』では二人の役割が全く逆転しており,主君である上杉景勝が徳川勢を追撃しようとしたのに対し,直江兼続がこれを制止したものと描かれています。
直江兼続が追撃を主張したのに上杉景勝が止めたという『天地人』の描写と,上杉景勝が追撃しようとしていたのに直江兼続が止めたという『真田丸』の描写と,一体どちらが真実に近いのでしょうか。
歴史学的には,二人の言動に関する信頼できる史料は現在のところ見つかっておらず,真相は不明であると言わざるを得ません。
ただ,幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた『名将言行録』では,追撃を主張する兼続に対し,景勝は「太閤が他界する前、御前で生涯逆心しない旨の起請文を書き、その誓紙を太閤の棺に納めることは天下ことごとく知っている。この度のことは家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上、こちらも会津へ引き返すのが道理と言うものだ。いま家康を追撃すれば先々申してきたことは全て偽りになり、天下最大の悪人として信用を失う」と述べたとされており,一般的には「景勝が兼続を止めた」ものと信じられていたようです。
もっとも,この『名将言行録』は,様々な文献を調べて編纂された作品ではあるものの,当時巷間で流布していた話を参集しただけの箇所もあり,それが史実であるか否か入念な検証を経たものではないため,整合性のない記述や明らかに史実と乖離している記述の存在も指摘されており,歴史学会では信頼性の乏しい『俗書』として取り扱われています。
そのため,『歴史言行録』の記述を鵜呑みにして「景勝が兼続を止めたのだ」と安易に結論付けることはできないのです。
なお,『天地人』における兼続と景勝のやり取りは,おそらく『名将言行録』にヒントを得たものと考えられますが,景勝が追撃を止めさせた理由についての描写は,以下のとおり,はっきり言ってバラバラです。
● 名将言行録における理由
上記のとおり。要するに,勝手に戦を仕掛けてきた家康を迎え撃つのであれば,太閤(豊臣秀吉)の定めた惣無事令(大名同士の私戦を禁止する命令)に違反することにはならないが,こちらから家康を攻撃するのであれば自分が惣無事令に違反することになり,自分は天下最大の悪人として信用を失う,というもの。
● 『天地人』の原作小説における理由
当時の上杉家は,東の伊達家や北の最上家をはじめとする東軍方の諸大名に囲まれており,上杉軍が領地を空にして徳川軍を追撃すれば,これら東軍方の諸大名に背後を突かれるおそれがある,というもの。
● 『天地人』の大河ドラマにおける理由
逃げようとする敵を追撃するのは義に反する,というもの。
黒猫としては,この中では『天地人』の原作小説で挙げられている理由が,最も説得力のある理由だと思います。
すなわち,史実の上杉家は,徳川軍が退いた後,東軍側の最上家が人質を出すとして和睦を申し入れているにもかかわらず,大軍で最上領に攻め込んでおり,秀吉の定めた惣無事令など完全に無視しています。そして,戦後景勝が会津120万石から30万石に大減封されたのも,直江状ではなく主にこの最上攻めが重大な惣無事令違反とみなされたことによるものですから,「名将言行録」の記述は明らかに史実と矛盾しています。
また,戦争で逃げる敵を追撃するのは,勝つためには当然のことであり,景勝の義父である上杉謙信も,手取川の戦いで,撤退しようとする柴田勝家率いる織田軍を追撃して大勝利を収めています。逃げる敵を追撃するのは義に反するなどという考え方は,平和ボケした現代日本人特有の愚かな発想であり,戦を全く知らない公家や今川氏真あたりの愚将ならともかく,ひとかどの戦国大名である上杉景勝がそのような主張をするとは到底考えられません。
したがって,名将言行録説や大河ドラマ版『天地人』説は論外であり,まだ現実的にあり得ると評価できるのが,原作小説版『天地人』説ということになるわけです。
一方,『真田丸』の脚本を書いた三谷幸喜氏は,そもそも「景勝が兼続を止めた」という見解を採らなかったらしく,立場が逆になっていますが,その理由に関しては詳しく述べられていませんでした。三谷氏がなぜこのような見解を採ったかについての考察については,後述します。
信頼できる史料が存在しない以上,上記のうちいずれが正しいかは当時の状況等に照らして想像するしかないのですが,黒猫自身の見解としては,『天地人』と『真田丸』の描写はいずれも誤りであり,おそらく上杉景勝と直江兼続の二人とも,戦わずに引き返していく徳川軍を追撃することは,全く考えていなかったであろうと思っています。その理由は以下のとおりです。
1 当時の上杉家は,徳川軍との交戦より越後奪還を強く望んでいた
そもそも,徳川家康が上杉討伐を決断したきっかけは,「上杉景勝が謀反を企んでいる」という訴えがあったというものですが,ここでいう「謀反」とは,「上杉家が豊臣秀吉の定めた惣無事令に違反して,秀吉に取り上げられた旧領・越後の奪還を企んでいる」というものです。
このように訴えたのは,関ケ原の戦いの2年前に,秀吉から越後春日山30万石を拝領した堀秀治他数名であり,上杉家が領内の街道を整備し,大量の武具を調達するなど戦争の準備とも解釈できる行動を取っていること,しかも当時の越後では,直江兼続の密命により上杉の旧臣や神官・僧侶などが一揆を起こしていたことから,このような訴えも全く理由のない讒言というわけではありませんでした。
これに対し,当時の豊臣政権下で政治の実権を握っていた徳川家康は,上杉景勝に対し,このような訴えがある以上,異心がないというのであれば上洛して釈明せよと命令したわけですが,これらの嫌疑に対する『直江状』の返答は,要旨以下のようなものでした(直江状自体が後世の偽作だという説もありますが,この記事では一応本物だという前提で話を進めます)。
(1) 上洛命令に対して
・(当時の上杉領である)会津についていろいろと不穏な噂があるようですが,隣同士の京と伏見の間でさえ,しばしば根拠のない噂が立つものです。ましてやここは遠い会津ですから,誰かが景勝を弱輩と思って,言いたい放題根拠のない噂を流しているのでしょう。そのような噂に耳を貸すべきではありません。
・景勝が上洛しないのを不審だといいますが,当家は一昨年に越後から会津に転封され,景勝は昨年9月に領国へ帰ってきたばかりです。それで正月にまた上洛せよというのでば,時間がなくて領国の統治ができません。しかも会津は雪国のため,10月から3月までは何もできません。それでも景勝に逆心ありというのですか?
・謀反の心がないなら誓紙を出せと言いますが,景勝は昨年から同様の起請文を何度も出しています。それらの起請文は意味がないものだというのですか?
・景勝は謀反など考えておらず,堀秀治などが謀反を企てているという讒言を流しているだけです。そうした讒言者の言葉を信じてしっかり調べないというのであれば,家康の方こそ表裏のある人間だということですよ。
(2) 武具を集めていることについて
・上杉家が武具を集めていることを不審に思っているそうですが,上方(都会)の武士は今焼・炭取・瓢ひさご(ヒョウタン)など人たらしな物を集めるのが趣味なのに対し,田舎の武士は鉄砲や弓の道具を集めるのが趣味です。これはそれぞれの国の風習であり,不審なことはありません。そのようなことを気にするのは天下人のすることではないですよ。
(3) 交通整備を行っていることについて
・道路を作り,船や橋を渡して交通を整備するのは,国を持つものとして当然のことです。当家は,越後でも同様の交通整備を行ってきましたが,当家に代わり越後を統治している堀直政(堀秀治の補佐役)は何もやっていないから大変です。越後の堀秀治を踏みつぶすのは造作もないことです。
・景勝がは会津の領国内のみならず,隣接する上野・下野・岩城・相馬・(伊達)政宗領・最上・由利・仙北にも道をつなぎましたが,これらの土地の大名たちからの苦情は一切出ていません。その中で,堀直政だけが道を作るのを恐れ,色々言ってくるのですが,これは直政が武道を知らないから慌てているのでしょう。本当に逆心があるというなら,道を作ったりしないで国境を封鎖するでしょう。不審な点があれば,使者を送ってください。全てを見せて合点が行くようにします。
自分が豊臣政権のトップだと思って考えてみてください。直江兼続のこのような返答を読んで,景勝に越後奪還の意思がないと安心できる人が果たしてどれだけいるでしょうか。
当時の上杉家は120万石,東北地方では最大の領地を与えられている大名であり,第2位の伊達家でさえ60万石余りに過ぎませんから,国境封鎖などしなくても,東北地方において単独で上杉家に攻め込めるような大名は存在しないのです。
また,当時の上杉領に隣接する大名のうち,伊達・岩城・相馬・最上といった諸大名は,豊臣政権に入る前から長期間その領地を治めてきた実績のある土着の大名であり,これらの大名家を攻めようとすれば地元住民に激しく抵抗され,征服や統治に手間取るリスクがかなり高いですが,堀秀治などが治める越後は,つい2年前までは上杉家の領地だったところであり,上杉軍は越後の地理や春日山城の内部構造も当然熟知しており,領民にも上杉家のシンパが多いため,攻め取るのもその後の統治も極めて容易です。
しかも,上杉景勝も直江兼続もその家臣たちの多くも,越後出身者ですから,出来ることなら故郷の越後に帰りたいという気持ちは当然強かったでしょう。上杉家が越後に攻め込んで来る危険性は,上杉家に隣接する他の領国に比べ飛躍的に高く,若年の堀秀治を補佐して越後を統治していた堀直政が上杉家を極度に恐れるのは,むしろ極めて自然なことです。
要するに,当時の上杉家に掛けられていた嫌疑の内容を考えれば,直江状の内容は単なる屁理屈であり,有効な弁明には全くなっていません。しかも,書状の中で越後の堀秀治を踏み潰すのは造作もないことだと言ってみたり,五大老の筆頭である徳川家康に対する侮辱的表現を随所で使っていたりするのですから,仮に判断するのが徳川家康でなかったとしても,上杉景勝には謀反(惣無事令に違反して越後を奪回すること)を企んでいる,征伐する必要があると判断せざるを得なかったでしょう。
この直江状を契機として始まったのが徳川家康の上杉征伐ですが,実際には石田三成の挙兵により,上杉軍は東軍の大軍勢と戦わずに済みました。上杉景勝と直江兼続の頭にあったのは,徳川軍と戦うことではなく,この隙に旧領・越後を奪還しようという思いであったことは,もはや想像に難くありません。
2 当時の上杉家は,徳川軍を追撃できる状況になかった 徳川家康による会津征伐は,もともと5か所からの一斉攻撃が予定されていました。徳川家康と西国諸大名が率いる本軍が南の白河口から攻める一方,北の米沢口からは最上義光・南部政直・戸沢政盛ら,北東の信夫口からは伊達政宗,西の越後津川口からは前田利長・堀秀治・溝口秀勝・村上義明ら,南東の仙道口からは佐竹義宣といった具合です。征伐軍の総兵力は正確には分かりませんが,おそらく10万を超える規模であったことは間違いないでしょう。
これに対し,守る上杉軍の総兵力はせいぜい3万人前後であったと推測され,地の利を活かして迎撃すれば何とか持ちこたえられる可能性もあるものの,明らかに劣勢です。
実際には,家康が小山に着陣した7月24日,石田三成挙兵の方がもたらされて上杉征伐は中止になり,家康率いる東軍本隊は上方へ戻っていきました。
もっとも,家康は上杉・佐竹への抑えとして,宇都宮城に次男・結城秀康率いる軍勢を残していったほか,信夫口からの進攻を命じられていた伊達政宗は,翌7月25日に上杉方の白石城を落とし,直江兼続が白石城奪還のために送った軍もゲリラ戦で敗れてしまったため,
上杉景勝と直江兼続は,はっきり言って家康軍を追撃するどころではなく,まず伊達政宗を何とかしなければならなかったのです。 上杉家と伊達家とは,白石城を返還するという条件で8月頃にいったん和睦が成立し,伊達政宗以外の諸大名は上杉家と戦わずにそれぞれの領国へ引き返したようですが,この時点で東軍を追撃するには既に時機を失していました。しかも,石田三成の友人で西軍への参加を約束していた常陸の佐竹義宣は,東軍に付くべきと主張する父・佐竹義重や家臣たちに猛反対され,結局どっち付かずの曖昧な態度に終始しており,8月中は家康も江戸城に待機し状況を見守っていたため,このとき上杉家単独で家康領の関東に攻め込むのは,単なる自殺行為に他なりませんでした。
伊達家と和睦が成立した後,上杉家としては直ちに旧領・越後の奪還に乗り出すという選択肢も考えられたはずですが,従来から上杉家と不仲であった山形の最上義光が,秋田実季と結んで庄内の上杉領を挟み撃ちにしようと企んでいることを知ると,上杉家は旧領奪還よりまず最上を潰すのが先だと判断したらしく,9月になると直江兼続を総大将として,2万5000の大軍で最上家征伐に乗り出しました。これが慶長出羽合戦と呼ばれる戦いです。
守る側の最上軍は,総兵力7000人程度の小勢力に過ぎませんでしたが,最上方の将たちは必死で城を守り抜き,直江兼続は結局目的を達しないまま,関ケ原の敗報を聞いて撤退するしかありませんでした。
このような経緯を考えると,どうやら「そもそも上杉景勝と直江兼続が,家康を追撃するかどうか相談するシーンは存在しなかった。二人ともそれどころではなかった」と考えるのが正解のようです。
『真田丸』の脚本を書いた三谷氏は,前述のとおり景勝が追撃しようとしたのを兼続が止めたという話にしていますが,これは直江兼続ほどの武将が,主君に対しそこまで無謀な追撃を献策するはずがないだろう,という問題意識を持っていたものと推察されます。しかし,それならば主君の景勝自身も追撃しようとは考えなかっただろう,という結論になるのがむしろ自然です。
史実における関ケ原の戦いは,「直江状」で家康を会津におびき寄せ,家康が会津で上杉軍と戦っている間に三成が挙兵し,退却する家康軍を上杉と佐竹が追撃し,最後は関東で合流して家康を追い詰めるというのが当初における西軍側の作戦であったところ,挙兵のタイミングが早すぎたため家康は上杉軍と戦わずに引き返し,上杉は伊達への対応に追われ家康を追撃するどころではなく,佐竹は家中の反対でそもそも西軍に参戦できず,家康は無傷で西に向かい石田軍と対峙する・・・・・・
このように,当初の目算が次々と狂っていき,真田昌幸も西軍の作戦が成功するかどうか不安に感じたことから,念のため信幸を東軍に参加させることにしたというのが,史実に準拠した本来の物語なのではないか,という気がします。
もし,関ケ原の戦いが長引いていたら? 歴史にIFは存在しないとよく言われますが,関ケ原の戦いのような10万人規模の大戦がわずか1日で終わるのは戦史上もかなり異例のことであり,黒田官兵衛でさえも関ケ原の戦いが長引くことを期待して,その隙に九州で自勢力の拡大を図っていました。
最上家の制圧後,上杉景勝と直江兼続が何をしようと考えていたかについては諸説ありますが,おそらくは旧領・越後を奪回し,その勢いで東北地方の東軍方諸大名を降伏させて東北地方全域を制圧し,大軍を率いて関東に攻め上り家康と対決することを考えていたのではないかと思われます。関ケ原当時における上杉家の軍事力を考えれば,それも決して実現不可能な夢というわけではありませんでした。
しかし,関ケ原の戦いで石田三成があっけなく敗れ,上杉景勝は米沢30万石に減封され,大軍を率いて家康と対決するという景勝の野望は露と消えてしまいました。『真田丸』で真田幸村を「日本一の兵」と称賛した上杉景勝の心には,家康と戦って勝つという自身の果たせなかった夢を幸村が果たしてくれたという,羨望の思いが混じっていたのかも知れません。
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