本日,大河ドラマ『真田丸』の総集編が放映され,一年間楽しませてもらった真田丸も,今日で見納めとなりました。
ところで,『真田丸』の主人公である真田信繁は,ドラマでは大坂入城前に「幸村」に改名したものとされていますが,史実の信繁は,「幸村」と名乗ったことは一度もありません。真田信繁については様々な研究が行われていますが,死の前日である道明寺の戦いで,信繁が家臣6名に与えた感状にも「信繁」と署名していたことが明らかになっており,歴史学的には,信繁が生前に「幸村」と名乗ったことはないということでほぼ決着が付いています。
にもかかわらず,真田信繁は本名よりも「幸村」の方が圧倒的に有名であり,できるだけ史実に近い形で真田信繁の生涯を描こうとした『真田丸』でも,最後は「幸村」と名乗る形にせざるを得ませんでした。なぜこのような事態が生じたのでしょうか。
1 「幸村」の名前が登場したのは1672年の『難波戦記』 歴史上,真田「幸村」という名前が初めて登場したのは,大坂の陣から50年以上が経過した後,寛文12(1672)年に刊行された『難波戦記』であるとされています。
当時,大阪冬の陣・夏の陣については,参戦した大名・旗本や将兵個人などによる各種の伝承は伝わっていたものの,それらを総合的にまとめ上げた正確な記録は存在しませんでした。そこで,当時幕府の老中を務めていた阿部忠秋が,万年頼方・二階堂行憲の両名に対し,大坂の陣に関する記録を編纂するよう指示し,こうして出来上がったのが『難波戦記』です。
なお,老中・阿部忠秋は,非常に責任感が強い名宰相として知られた人物であり,関ケ原の戦いを扱った歴史書『関原日記』の編者としても知られていますから,大坂の陣についても正確な記録を残すことにこだわったのでしょう。
そういったわけで,『難波戦記』は,いわば大坂の陣に関する幕府の公式史料集と言ってよい歴史書であり,当然登場人物のほとんどは実名で,可能な限り歴史的事実をありのままに記録しているわけですが,なぜか真田信繁だけは,本名の「信繁」ではなく「幸村」という変名で記述されたのです。
『難波戦記』において,なぜ「信繁」ではなく「幸村」という名前が使われたのか。この点については,阿部忠秋や『難波戦記』の著者らも何ら書き残しておらず,歴史学上も定説がないので推測するしかありませんが,黒猫としては,おそらく幕府に遠慮した上での措置だったと考えています。
この問題に関する論者の中には,幕府の公式史料なのだから幕府に遠慮する必要はなかったはずだと主張される方もおられるようですが,それは現代人の発想です。
古来から,歴史書を書くのは命懸けの仕事であり,正しい歴史的事実を書き残そうとして殺された人は決して少なくありません。 例えば,『春秋左氏伝』における「襄公二十五年」の項には,次のような逸話が残されています。
齊太史書曰「崔杼弒莊公」、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃捨之。 斉の宰相である崔杼は,自らの君主であった荘公を,その不行跡を理由として殺し,弟の景公を即位させたのですが,斉の太史(歴史官)はその事実を,「崔杼が莊公を弒逆した」と史書に記載しました。崔杼は,史書の書き直しを命じたところ太史が聞き入れなかったため,この太史を殺しました。
代わって太史となったのは,その処刑された人物の弟だったのですが,その弟もやはり同様に記録し,崔杼はその弟も殺してしまいました。続いて太史となったのはその末の弟だったのですが,やはり同様に記録しました。崔杼もついにあきらめ,そのまま記録させた,というのです。
その他,中国・北魏に仕えた漢人宰相の崔浩も,主君の太武帝から国記の編纂を命じられ,しかも太武帝から「つとめて実録に従え」と命じられていたことから,北魏の起源となった拓跋部の歴史をありのままに記述し,さらにその内容を石碑に刻んで公開しました。
こうして作られた国記には,中原に入る以前の拓跋部の歴史,すなわち塞外で略奪を生業としていたとか,父が死ねば自分の母以外の父の妻妾を自分のものにしていたといった,漢民族の風習から見れば禽獣に等しいような生活の実態が克明に記されていたのです。
このような国記の記述には,北魏の貴族層である拓跋部の人たち,特に国記の編纂を命じた当の太武帝が大いに怒り,国記の編纂責任者であった崔浩は,本人やその家族,姻戚のみならず,崔浩に仕えた執事や下僕に至るまで,五族皆殺しの刑に処されてしまいました(西暦450年に起きたこの事件は,歴史上「国史の獄」と呼ばれています)。
このような前例もあることから,歴史に詳しい人物であればあるほど,時の権力者にとって都合の悪い歴史的事実をそのまま書き残すことがいかに危険であるか,当然認識していたでしょう。そして史実における真田信繁という人物は,江戸幕府の開祖であり絶対的な存在であった神君・徳川家康公を相手に,大阪冬の陣・夏の陣で華々しく活躍し,特に大坂夏の陣では家康を自害寸前まで追い詰めたという人物ですから,これをそのまま『難波戦記』に記述したのでは,その編纂を命じた阿部忠秋や著者たちの命も危うくなる,と『難波戦記』の著者たちが考えたとしても,何ら不思議ではありません。
そこで,念のため真田信繁だけは敢えて偽名の「幸村」にしておいて,いざとなったら「真田幸村なんて人は実在しません。この話はあくまでフィクションです」と言い逃れする余地を作っておこう,と考えたのではないでしょうか。
2 「真田幸村」の名前が大流行した理由 『難波戦記』が公開されると,真田幸村の物語は芝居や講談のネタに使われ,瞬く間に大流行しました。
『難波戦記』の著者が「幸村」という名前をどこから採用したのかは諸説あり判然としませんが,
江戸時代の庶民たちは「村」の字を,徳川家に仇なす妖刀『村正』から採ったもの,と解釈したのです。 村正とは,伊勢国・桑名で活躍した刀工及びその作った刀の名前であり,現代風に言えば「村正ブランドの日本刀」といった意味になりますが,江戸時代には,村正ブランドの刀は徳川家に仇をなす妖刀であるという迷信が流行していました。
すなわち,家康の祖父・松平清康は家臣の謀反により若くして殺害されましたが,その凶器として使われたのが村正であり,家康の父・松平広忠が家臣の岩松八弥に殺害されたときにも村正の刀が使われ,さらには家康の妻・築山殿を斬った刀や家康の長男・信康が切腹の際に使った脇差も村正であり,これらの事から家康は村正を非常に嫌うようになった,と言われていたのです。
現代的視点で考えれば,室町時代後期から江戸時代前期にかけて,三河やその周辺で最も流通していた刀が村正ブランドの刀であり,仮に家康の近親者の死にすべて村正が関わっていたとしてもそれは当然のことであり,家康自身も自身の形見として村正ブランドの刀を尾張徳川家に遺していますから,村正の妖刀伝説などは馬鹿げた迷信に過ぎないのですが,当時は他の誰よりも幕府当局がその迷信を信じていました。
すなわち,村正の妖刀伝説は,江戸幕府の公式記録において史実として取り扱われ,幕府の所蔵していた村正ブランドの刀はすべて廃棄され,幕府の家臣や各地の大名などに使える陪臣に至るまで,村正ブランドの刀を所持することは厳禁され,村正ブランドの刀を所蔵することは幕府に対する反逆行為とみなされる,という時代があったことは事実であり,代々村正ブランドの刀を製造していた村正一派も,四代目以降はブランド名を「千子」に替えざるを得ない,という事態に追い込まれていました。
このような時代背景の下では,
「真田幸村」の名前は,まさしく家康キラーとしてこれ以上は無いほど相応しい名前でした。 幸村の「幸」は,言うまでもなく徳川軍を二度にわたって撃退し,家康を恐れさせた名将・真田昌幸の「幸」。『真田丸』でも語られていたとおり,家康は自身に仕えた昌幸の長男に対しても,わざわざ「信幸」から「信之」に改名させており,家康が真田昌幸を恐れ,かつ忌み嫌っていたことは周知の事実でした。
そして,幸村の「村」は,同じく家康が忌み嫌っていたとされる妖刀村正の「村」。まさに家康の嫌がる要素を満載した「真田幸村」なる人物が,大坂冬の陣・夏の陣で家康を大いに苦しめ,特に夏の陣では家康を自害寸前まで追い詰めるほど活躍したという事実が,家康の作った幕府当局から公表されたのです。
現代において敢えて類例を探すとすれば,プロ野球で読売の松井選手を13打数ノーヒットに抑えたという阪神の遠山投手みたいなものですが,なにしろ相手が江戸幕府の絶対的存在である神君・徳川家康公ですから,10数年前に話題となった「遠山・葛西スペシャル」とは比較にならないくらい面白い話です。『難波戦記』が公表されるや否や,『真田幸村』の物語が庶民の間に大流行したのも,ある意味歴史の必然であったと言えます。
なお,このような時代背景から,江戸時代の軍記物や講談の類では,真田幸村が徳川軍との戦いに用いた武器も当然のように妖刀・村正とされていたようですが,現在では信繁が実際に使っていた刀は正宗,脇差は貞宗であり,村正を使っていたわけではないことが判明しています。
3 「真田幸村」の物語は,幕府も取り締まることができなかった 江戸時代には,真田幸村を題材にした物語以外にも,羽柴(豊臣)秀吉や石田三成を題材にした物語も作られていたところ,秀吉や三成を題材にした軍記物や芝居・講談の類は幕府によって厳しく取り締まられ,現代まで残っている軍記物も『岩田光成』『間柴筑前守』などといった偽名を使わざるを得ませんでした。
ところが,幕府にとっては(たった一日で家康に大敗してしまった)石田三成の百倍くらい都合が悪そうな「真田幸村」の物語については,幕府当局も黙認せざるを得ませんでした。理由は以下のようなものが挙げられます。
① 「真田幸村」の元ネタが,『難波戦記』という幕府当局自身が作成し公表した公式史料集であること。
② 「幸村」の名前が本名ではないため,追及しても「この話は史実ではなくフィクションです」という言い訳が出来てしまうこと。
③ 大坂冬の陣・夏の陣において,幕府軍が予想外の苦戦を強いられたことは幕府側にとっても弁解しようのない歴史的事実であり,「腑甲斐ない徳川軍」と揶揄されるよりは,「真田幸村が名将だった」と言われる方が,幕府にとってもまだマシであったこと。
④ 家康によって完膚なきまでに滅亡されられた豊臣家や石田家と異なり,真田家は江戸幕府の下でも大名家として存続していたこと。
しかも,真田家の藩祖・信之は父や弟の分まで幕府に忠勤を励んだ結果,幕府から信州の要地・松代(現在の長野市付近)13万石を与えられ,さらに秀忠・家光・家綱といった歴代将軍からも気に入られ,4代将軍・家綱からは「天下の飾り」と呼ばれるほどの人物でした。
信之の死後も,真田家は外様大名でありながら家格は譜代大名と同格とされ,幕末には老中・真田幸貫(ただし,信之の子孫ではなく,松平定信の庶長子が養子として真田家を継いだもの)を輩出するほどの名家となっていました。そのため,幕府と親しい名家である真田家の武勲を称賛しても,これを幕府に対する反逆行為とみなすことはできなかったのです。
そんなわけで,真田幸村の物語は江戸幕府の体制下でもお咎めを受けることなく流行し,どんどん話に尾ひれがついて,幸村の下で家康に立ち向かう,猿飛佐助をはじめとする「真田十勇士」の物語まで創作されるようになりました。
・・・だとすると,
真田幸村の物語が現代まで残るほど有名になった理由の半分くらいは,兄・信之の功績であった と言えることになりますね。
(時間切れになってしまったので,この話の続きは『後編』と題して,年明けにでも書きたいと思います。)
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