今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』。平均視聴率は今のところ14%前後と,良くもなく悪くもなくといった水準で推移しているようです。黒猫自身は,内容については不満たらたらながらも,昨年からの流れでまだ見続けています。
登場人物の中では,高瀬ちゃんがいいですね。可愛いし,結構しっかりしていて働き者だし,しゃべり方が黒猫のおばあちゃんにそっくりだし(黒猫の祖先は,両親ともあの地方の出身なのです)。嫁さんをもらうならああいう娘がいいですね。
・・・まあそれはともかく,今回の記事は以前予告していた,今川義元に関する話の続きです。今回は『甲陽軍鑑』における義元評の紹介と分析が中心になります。
1 『甲陽軍艦』とは? 『甲陽軍鑑』は,武田家の重臣・高坂昌信による筆録であり,主として昌信が口頭で述べたことを,猿楽者である大倉彦十郎が筆記することで成立したと考えられています。
武田家では,武田信玄が亡くなって勝頼がその跡を継ぐと,勝頼の側近である跡部勝資・長坂長閑といった人物が重用される一方,高坂昌信をはじめとする信玄以来の老臣は次第に遠ざけられるようになり,武田家の全盛期を築き上げた武田信玄時代の家風も,次第に忘れ去られるようになっていきました。
このような事態を憂いた高坂昌信が,勝頼の側近である跡部勝資・長坂長閑宛てに書き残させたのが『甲陽軍鑑』です。
その内容は,武田信玄時代の法令,兵法,武士としての作法や心得,武田家や他家の歴史などかなり多岐にわたっており,単純に『歴史書』『軍学書』といったカテゴリーに括るのが難しい書物なのですが,『甲陽軍鑑』は昌信の死後も,春日惣次郎,大蔵彦次郎らが書き継ぎ,武田家の遺臣の子で甲州流軍学の祖とされる小幡景憲のまとめた写本が後代に流通しました。
『甲陽軍鑑』は,江戸時代を通じて,いわば武士たる者の必読書として広く読まれていたのですが,明治時代になると『甲陽軍鑑』を偽書呼ばわりするような見解が主流になり,同書で頻繁に登場する山本勘助も「架空の人物ではないか」などと言われる時代が長く続いていました。
しかし,1990年代に入り,国語学者の酒井賢二氏が『甲陽軍鑑』の内容を詳細に研究した結果,少なくとも『甲陽軍鑑』が主として高坂昌信自身の口述を家臣が書き留めたものであること自体は間違いない,過去の歴史については誤った記述も多いが,それは『甲陽軍鑑』自体で「昔話なので誤りも多いだろう」と何度も断っているところであり,誤った記述についてきちんと史料批判を行えば史料として使えると結論付けられ,現代の歴史学ではその史料的価値が再評価される傾向にあります。
なお,今日我々が読める『甲陽軍鑑』には様々なものがありますが,この記事のベースにしているのは,ちくま学芸文庫の『甲陽軍鑑』(佐藤正英校訂/訳,2006年)です。同書では,甲陽軍艦の口書から品第十四までを,原文・現代語訳併記の形で掲載しています(『甲陽軍鑑』は品第五十九まであります)。
価格もお手頃で,古典が苦手な方でも気軽に読める内容ですので,興味のある方はご一読をお勧めします。
2 今川家について書かれた『品第十一』 甲陽軍鑑のうち品第十一から品第十四までは,「領国を失い家中を滅ぼす四人の武将」という一塊のテーマについて語られたものであり,甲陽軍鑑の中でも白眉の物語として知られています。
品第十一の冒頭では,領国を失い家を滅ぼす大将(国持大名)には4つのタイプがあり,第一に馬鹿な大将,第二に利口過ぎる大将,第三に臆病な大将,第四に強すぎる大将があり,そのいずれも,表裏があって信用できない人物であると論じられています。
そして,品第十一では馬鹿な大将,品第十二では利口過ぎる大将,品第十三では臆病な大将,品第十四では強すぎる大将について論じられており,馬鹿な大将の例として今川義元・氏真父子,利口過ぎる大将の例として武田義信,臆病な大将の例として(山内)上杉憲政,強すぎる大将の例として武田勝頼が挙げられています。
ただし,上記のうち品第十二の武田義信と品第十四の武田勝頼については,この説明で概ね差し支えないのですが,品第十一と品第十三については若干の補足が必要になります。
『甲陽軍鑑』の口書では,武士の心得として「一国を持つほどの国持大名に対しては,例えて敵方であれ,あんな大将とかろくでもない大将とか呼ぶことなく,ただ大将と呼ぶべきである。敵方の武将を口汚く罵るのは,合戦に弱い武将の下の臆病な武士の作法である」と述べられており,著者のこのような道徳観を反映してか,品第十一と品第十三については,「馬鹿な大将」「臆病な大将」が誰であるかについて,名指しでの批判は避けられています。
もっとも,品第十三で批判されているのはほとんど上杉憲政一人であるため,昌信のいう「臆病な大将」が上杉憲政を指すことに疑いの余地はほぼないのですが,品第十一では今川義元・氏真の両方が批判されているため,読者の間でも昌信の指す「馬鹿な大将」が今川義元を指しているのか,それとも氏真を指しているのか,意見が割れているように感じられます。
黒猫としては,おそらく
昌信のいう「馬鹿な大将」とは,今川義元・氏真の両方であり,義元と氏真のどちらがよりひどい馬鹿かと問われれば,甲乙つけ難い・・・じゃなくて丙丁つけ難いところではあるが,
強いて言えば氏真の方がまだマシではないかというのが正直な感想です。
もっとも,今川家の事について書かれた「品第十一」の記述に従って今川義元を批判するのであれば,その前提として「品第十一」の内容がどの程度信用できるのか,という点について論じる必要があります。
前述のとおり,近年の研究で『甲陽軍鑑』が後世の創作ではないことがほぼ明らかになっており,「品第十一」はその文面どおり,高坂昌信が天正3(1575)年6月頃,長坂長閑及び跡部勝資宛に記したものであると考えられます。
武田家は,義元存命中は今川家の同盟国であり,長年今川家への仕官を望んだものの果たせず,武田家に登用された山本勘助のような人物もいました。そして,義元の死後武田家は今川家との同盟を破棄して駿河へ侵攻し,今川家の旧臣たちを多く召し抱えています。
「品第十一」の中には,そうした今川家の旧臣たちが,利口ぶって以前の主君の悪口を言いふらすのに昌信自身が辟易しているものと読める箇所があり,「品第十一」は,山本勘助やそうした今川の旧臣たちから聞いた話が主な情報源になっていると考えられます。
現代で言えば,東芝の元社員を大量に雇った某大企業の幹部が,そうした東芝の元社員たちから東芝の話を聞き,自分の後任者宛に「こういう東芝みたいな経営をしてはいけないよ」という覚書を残したようなものでしょうか。
もちろん,山本勘助や今川の旧臣たちが,今川家のひどさを実態以上に悪く言いふらしている可能性も否定はできませんが,昌信自身が今川家のことを必要以上に悪く書いているとは考えにくいことから,概ね七,八割方は信用できる史料であると考えて良いのではないかと思われます。
3 『馬鹿な大将』とはどのような大将か? 品第十一で述べられている「馬鹿な大将」について,原文を逐一引用していると必要以上に長くなってしまうので,なるべく簡潔に要点のみを挙げると,概ね以下のとおりです。
・馬鹿な大将は,単に馬鹿だというのではなく,大方剛勇な心を持ち,わがままである。
・わがままだから,遊山・見物・月見・花見・和歌・連歌・漢詩・俳句・能芸などを我を忘れて好み,あるいは芸能に熱中する。ときには,弓・剣術・騎馬・鉄砲などの武芸を稽古するが,本性が馬鹿なので,武芸を合戦のこととせず,単なる芸達者の域に終わっていながら,自分は国持ちの大将であると自惚れている。
・家臣たちは,大将のすることが良くても悪くても,お見事なりと誉めたてる。それ自体は当然のことであるが,優れた大将であれば,うまくできないことを褒められるのは自分に対する当座の儀礼としての挨拶であると考えるところ,馬鹿な大将は,家臣の褒めるままにいい気になって,自分がすることの良し悪しも分からなくなり,いつの間にか「俺様はすごい大将である」と自惚れてしまうのである。 以上に続けて,こういう馬鹿な大将の家中は,次のようになると論じています。
・主君は愚かで,家臣を見分ける眼を持たず,思慮のない愚かな家臣を召し集めて崇敬するので,家臣たちは,善悪を考えず,ただ自分の武功をたてることに汲々とし,運よく出世すると,裏付けもないのに自慢し,高慢を二六時中鼻の先にぶらさげている。
・総じて,小身の武士が愚かであると,それに仕えている者も愚かである。それと同様に,大将が愚かであると,その許で側近を務める出頭人が愚かである。下々の喩えに「牛は牛連れ,馬は馬連れ」というが,要するに
人間は自分と同じような者を側に置き諸役を命じたがるものであるから,大将が愚かであると,その側近もみな愚か者になるのである。
・愚かな大将の家中では,人々が,そうした愚かな側近を指して,剛勇な,分別のある,利発ななどと誉める。人々は,大将を褒めようとして側近である出頭人を褒め,出頭人を褒めるとなると出頭人が引き立てている者を誉めそやす。邪欲にかられた人々は,愚かな者をも分別のある人だと褒めはするが,それはその家中だけのことで,他の家中では笑い種である。その家が滅びて後末代までもその作法や主君が,よからぬ例として引き合いに出されることになる。
・愚かな大将の許では,家臣たちの10人中9人くらいはへつらい者で,よからぬ作法の持ち主が多い。前代からの家老には優れた者もいるが,愚かな大将の側近たちに妨げられるのではないかと考え,良い思案を持っていても口を開かない。主君のとりさばきが何もかもあべこべで,よからぬ者たちが出世するから,人々も欲にかられてその真似をしようとするようになり,いつの間にか家中では思慮のない愚か者ばかりが権勢を振るうことになってしまうのである。
・上記のような悪しき家風に染まらない,数少ない思慮のある武士は分別があるため,その家中に身を置いている間は,家風の良し悪しについて少しも云々しない。家中を出て他の主君に仕えても,義理を重んじ,はじめの家中の良し悪しを言うようなことはしない。
・一方,思慮のない武士は,自分の家中の作法の悪さを知らず,当座は羽振りの良い者をお世辞に褒める。そのような者が他の家中へ行き,作法の良い主君に仕えると,そこではじめて酔いが醒めたように以前の家中の作法を思い出し,その悪いことに気づき,利口ぶって以前の主君の悪口を言いふらす。こういう人々は,分別が無く,義理を知らず,何の役にも立たない武士である。
原文は結構長いのでこれ以上は割愛しますが,要するに大将が馬鹿であり人を見る眼がないと,その側近も大将に媚びへつらうしか能のない馬鹿ばかりになり,その結果家中は馬鹿な大将やその馬鹿な側近たちに媚びへつらう者ばかりが出世するおかしな組織になってしまう,ということのようです。
『甲陽軍鑑』品第十一では,今川義元について「(親に付けてもらった師匠である)太原雪斎が,漢籍の知識をもとに義元に諫言していた間は,駿河・遠江・三河の三国の為政はうまく行われていた。雪斎の死後は織田信長の謀略にかかって,信長のわずかな軍勢によって討死した」などという感じで,あっさり書かれています。一応三国の国主であった人物なので悪くは書かないけど,このような人物が「馬鹿な大将」であることは,敢えて書くまでもないといったところでしょうか。
今川義元を擁護する論者は,桶狭間の戦いを単なる「不運」で片づけようとする傾向がみられますが,二万もの軍勢を率いながら,せいぜい2千人にも満たない敵軍に敗れ,しかも大将の首まで取られてしまう大名家というものは,内部にかなりの問題を抱えていたと考えるのがむしろ自然であり,例えば武田信玄のように立派で分別もある大将が,少数の軍勢相手に不覚を取り自らの首まで献上するなどということはあり得ないのです。
なお,今川義元の評判を「海道一の弓取り」から「馬鹿な大将」へ一気に転落させるに至った桶狭間の戦いの詳細については,後編で述べる予定であり,また今川氏真については別の機会に書く予定であるため,ここでは割愛します。
4 有能な人材をむざむざと逃した今川家 『甲陽軍鑑』品第十一では,今川家の悪しき家風の象徴的な事例として,山本勘助の仕官に関する経緯に触れられています。
山本勘助の出自については諸説ありますが,駿河国山本(現:静岡県富士宮市山本)の出身であり,その後三河国牛窪(現:愛知県豊川市牛久保)の城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入ったとする説が最も有力であり,大河ドラマ『風林火山』でもその説が採用されました。
山本勘助は,武者修行のため諸国を渡り歩いた後,天文5(1536)年頃に,今川義元に仕官しようとして駿河へやってきました。
勘助を寄寓させていた今川家臣の庵原忠胤は,家老の朝比奈兵衛尉(信置)を通じて,義元に勘助を推挙しましたが,義元は勘助を召し抱えませんでした。
勘助を推挙した朝比奈信置は,「勘助はひどい醜男で,片目の上に,指も揃っておらず,足も片足しかないが,大剛の武士であり,城取り・陣取りの兵法を極め,剣術は行流(京流?)の使い手で,合戦の駆け引きも心得ている」と義元に申し上げたのですが,義元や他の駿河の人々は,「勘助は,そもそも手足がととのっておらず,自分で城も軍勢も持っていないのに,城取り・陣取りの兵法を心得ているはずがない,今川家に仕官したいばかりに嘘をついているのだ」などと言い立て,相手にしませんでした。
勘助はそれでも諦めず,約7年間(『甲陽軍鑑』には9年と書かれていますが,どうやら7年の間違いのようです)にわたり駿河に滞在し,その間自らの兵法で,二,三度にわたり高名を得たのですが,それでも駿河の人々は「兵法は新当流こそが正統である」などと言って,勘助の実力を認めようとはしませんでした。
当時の勘助は牢人(当時は浪人のことをそう呼んでいた)で,一人の草履取りも連れていない身分であったため,今川家中で勘助の悪口を言う人は多くても,褒める者はありませんでした。
天文12(1543)年になると,武田家の重臣・板垣信方が勘助の噂を聞き,主君の武田晴信(後の信玄)に勘助を推挙しました。
勘助の噂を聞いた晴信は,早速知行100貫で勘助を召し抱えました。知行100貫というのは,当時における牢人の新規召し抱えとしては,破格の待遇と言ってよいものです。しかも晴信は,「小者一人すら持たない勘助に100貫もの知行を与えた」と譜代の小身武士が騒ぐことを慮って,板垣信方に命じて,馬・弓・槍・小袖,それに小者を道の途中で遣わせました。
勘助は,それらを身に着け,見苦しからぬ身なりで甲府へやってくると,晴信の許へ出仕の挨拶に参上しました。晴信は勘助に会うと,その知性や為人を非常に気に入ったのか,「あのような醜男でありながら評判が高いのは,よほど優れた武功があるのだろう。約束ではあるが100貫では道理に合わない。200貫を与える」と言って,その場で勘助に200貫の知行を与え,勘助を武田家の宝とされたのです。
その後,山本勘助は武田家の信濃攻略で数々の功績を積み重ね,最終的には知行800貫の足軽大将にまで出世しています。
なお,このように今川家で使ってもらえず,他家に移って大活躍した人物は,山本勘助だけではありません。『甲陽軍鑑』では特に言及されていませんが,若き日の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は,今川家の家臣・飯尾氏の配下である松下加兵衛(之綱)に一時仕えており,之綱からはある程度目を掛けられていましたが,同僚から妬まれて辱めを受けるようになり,間もなく之綱の許を去って,その後は織田信長に仕えています。信長に仕えた後の藤吉郎の活躍ぶりについては,改めて書くまでもないでしょう。
以上のとおり,今川義元という人物は馬鹿であり人を見る目が無く,その側近も馬鹿なへつらい者で固められていたために,有能な人材はかえって斥けられるというのが今川家の実態だったのです。
もっとも,義元の師匠である太原雪斎は確かに有能な人物であり,彼のおかげで義元時代に今川家が最盛期を迎えたことは事実ですが,別に義元自身が雪斎の才能を見出し積極的に登用したというわけではなく,雪斎は義元の父・氏親から義元の教育係を頼まれ,その縁で義元の家督相続にも尽力するなど,いわばキング・メーカー的な存在でした。
今川義元擁護論者の中には,雪斎を活躍させたのも義元の才能だと主張する者もいるようですが,それは雪斎が昔からの師匠であり家督相続時の大恩人でもあるので義元でも逆らえなかったというだけの話であり,雪斎の活躍をもって,義元に人材登用・活用の才があったと評価するのは,あまりにも無理があります。
余談になりますが,『甲陽軍鑑』で述べられている「国を亡ぼす馬鹿な大将」の人物像は,今の安倍総理にもピッタリ当てはまりますね。
安倍総理が選挙で大勝し,かつての中曽根総理・小泉総理をも上回る長期政権を続けてこられたのは,ライバルである民主党・民進党があまりにも弱体であることが主な要因であり,安倍総理自身は内政でも外交でも大した成果を挙げたわけではなく,国民からの支持も「他に適当な人物がいないから」という極めて消極的な支持しか得られていません。
一方,最近の安倍総理や昭恵夫人は,総理の「お友達」と称される側近たちに囲まれ,さらには何も分からない幼稚園児から「偉い人」「安倍総理がんばれ」などエールを贈られるなどという,あまりにもあからさまな権力者への追従を受けて,いつの間にか「俺様は小泉純一郎をも上回る偉大な政治家だ。その偉大さに相応しい業績を残そう」などと錯覚して性急な憲法改正プランをぶち上げ,急速に自滅への道を辿っているように見受けられます。
安倍総理が任命した閣僚も,そのうち少なくない数があまりにも軽率な失言で辞任に追い込まれており,はっきり言ってろくな人材がいませんし,自民党内でも数少ない有能な女性国会議員であった小池百合子氏は,安倍総理に干された挙句独断で東京都知事選に立候補して大勝し,いまや都議会の自民党勢力にとって最大のライバルとなっています。
後世の政治学者や歴史学者たちは,この程度の人物がなぜ長期にわたって政権を維持できたのか,おそらく首をひねることになるでしょう。
脱線はそのくらいにしておいて,続く後編では今川義元がその命と名声を一気に失うこととなった,桶狭間の戦いについて詳しく見ていくことにします。これも書くのに時間がかかる話なので,その間に別の記事を1~2本書くかも知れませんが。
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